“サムライアンパイア” 平林岳さん応援記

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ヤマオカ・アンド・カンパニー 代表   山岡 三四郎

 

平林さんのメジャー・リーグ挑戦

みなさんは平林岳(ひらばやしたけし)さんのお名前を耳にしたことがありますか。NHKをはじめ多くのメディアで取り上げられている人物ですので、聞き覚えのある読者の方も多いかも知れません。

(C) サンケイスポーツ

平林さんは、日本人初のアメリカメジャー・リーグ審判を目指して挑戦を続けている45歳の「サムライ」です。中学生の頃に「将来はプロの野球審判になる」と決意した彼は、学生時代からプロ野球の審判になるための試験を受験・合格するも、視力等の問題もあって不採用となり、1992年に渡米。プロへの登竜門であるジム・エバンス審判学校で優秀な成績をおさめ、日本人初のアメリカ野球審判となります。ルーキー・リーグ(日本風に言うと7軍=図参照)に配属された平林さんは、翌年にはショートAに昇格します。そして1993年末に日本プロ野球のパ・リーグにスカウトされ「逆輸入」されるカタチで帰国。2002年までパ・リーグの審判員を9年間務めました。この間、1999年には西武に入団した松坂大輔投手のプロ初登板試合で球審も務めています。

 

平林岳『サムライ審判』(アスペクト)より

パ・リーグ審判として幸せな家庭と安定した生活を手にしていた平林さんは、しかし一度経験したアメリカで抱いた「審判としてメジャー・リーグのグラウンドに立つ」という夢を捨てることが出来ません。パ・リーグ審判を退職し、再びアメリカの審判学校に入り直して最底辺からメジャー・リーグ審判を目指す決断をしました。ローンで購入した東京のご自宅に奥様とお嬢さんを残しての再挑戦です。選手同様、審判にとってもメジャー・リーグ昇格への道は困難を極めます。左の「メジャーリーグ階層図」をご覧ください。審判学校を出て採用されたすべての審判は、ルーキー・リーグからスタートし、厳しい査定を受けながら、評価を上げ勝ち残っていかねばなりません。難関をくぐり抜けメジャー昇格まで辿りつけるのは、なんと100人に1人。平林さんの場合、同時多発テロの影響で外国人に対する就労ビザの発給が厳しくなるという不運も重なってしまい、実際に再びルーキー・リーグのグラウンドに立てたのは2005年、39歳のときでした。しかし、ここからが快進撃の始まりです。平林さんは毎年のように昇格を重ね、ついに2009年春には日本人アンパイアとして初めてトリプルA(AAA)リーグに配属されます。トリプルAの上には、もはやメジャー・リーグを残すのみ。

 

平林さんとの出逢い、そして2011年のチャレンジ

そんな平林さんのチャレンジを私が知ったのは、昨年(2010年)10月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組でした。「メジャー・リーグの審判を目指す日本人がいる」というニュースを耳にしたことはありましたが、テレビ画面に映し出された、同じ1966年生れの44歳(当時)の奮闘ぶりは強烈でした。マイナー・リーグは別名「ハンバーガーリーグ」とも呼ばれます。毎日の食事にハンバーガー程度の安いものしか食べられない状況は、選手も審判も変わりません(ちなみにメジャー・リーグは「ステーキリーグ」と呼ばれます)。1シーズン5ヶ月の間に140試合以上の審判をこなし、その間休みは10日ほど。ほぼ毎日ひっきりなしに試合が続きます。審判は3人でクルーを組み、同じメンバーでシーズンを通して旅から旅への生活となります。陸路(すなわち車)での移動もザラで、ひどいときには一晩で700キロも車を走らせなければならないそうです。このような環境でもひたすらに夢を追いかける同い年のオジサンがいる… 私には衝撃的でした。

それから2ヶ月後の昨年12月、私は「サムライ審判、スポンサー撤退によって来期の渡米が困難に」というインターネット記事を目にします。米国で審判を続けていくことの金銭的な難しさについてはNHKの番組ではほとんど触れていなかったこともあり、驚いて平林さんのブログにたどり着くと、たしかに翌年のチャレンジは財務的に厳しくなっている模様です。次の瞬間、私は平林さんのブログに以下の書き込みをしていました。

初コメです。ごたぶんに漏れず10月のドキュメンタリーに圧倒され、今回の資金繰りのハナシに触発されたクチです。私、平林さんと同じ66年生れです。自分で会社を経営しています。大学院で教鞭も執っています。米国で学んだこともあり日本と米国の企業に育ててもらいました。高校のときに交換留学で米国に行き、今の人たちにも海外へのチャレンジ精神を持って欲しいと願っています。野球が大好きです。そんな私に平林さんのお手伝いが少しでも出来ないかと思い投稿しました。15-20分でも構いません。お目にかかれないでしょうか?

間もなく平林さんのマネジャーさんからご連絡をいただきました。やはり状況はたいへんなようです。日本の1軍審判だと1,000万円以上とも言われる待遇は、マイナー・リーグの場合、AAA審判でも月額3,000ドル(24万円)程度です。しかもシーズンオフには月給は全く支給されず、その間平林さんのような外国人の場合は、現地で他の仕事に就くことも出来ません。資金面での問題がメディアで報じられた結果、各方面から個人の寄付や募金活動の申し出があったそうなのですが、平林さんご自身は「自分が好きでやっていることなので、自分で何とかする」との固い意志を持っているとのこと。そこで、私の会社がスポンサーとなり、平林さんにはイメージ・キャラクターとして広告宣伝に一役買って頂くことになりました。こうして、2011年のシーズン、平林さんのメジャー・リーグを目指す挑戦はスタートしました。

昨年(2010年)は終盤のケガもあり満足出来るシーズンではなかったと振り返る平林さんですが、今年は一転して順調なシーズンをこなしていかれました。スーパーバイザーと呼ばれる査定人の視察試合でも納得のいくパフォーマンスを示すことが出来たとのこと(シーズンを通しての平林さんの活躍については、ぜひご本人のブログ http://old-rookie.aspota.jp/ をご参照下さい!)。スポンサーとして、平林さんが定期的に送って下さるレポートを読むのが本当に嬉しくて楽しみでした。

 

いざ、ラスベガスへ!

さて、ようやく、ここからが「現地訪問記」です(スミマセン、おまたせしました…)。スポンサーとして“サムライアンパイア”を応援してきた弊社ならびに私ですが、肝心の平林さんのグラウンド上での勇姿を、まだ一度もこの目で拝見出来ていません!日々の業務に忙殺されているうちにアッという間に時は過ぎ去り、マイナー・リーグも最終盤を迎えつつありました。「このままではいけない!」と思い立った私は、結局シーズン最後のカードを観戦するため、2泊4日でラスベガスにかけつけることにしました。「滑り込みセーフ!」ですね。   2011年9月2日、ロサンゼルス経由でラスベガス入り。カジノの灯りには目もくれず、宿泊先のホテルに到着(まあ、そのホテルにもカジノはあるのですが…)。平林さんは日本で UMPIRE DEVELOPMENT CORPORATION (UDC) というNPOを設立しているのですが、その関係者の方々(日本でアマチュア審判員をされている方が多かったです)もちょうど同じ時期に平林さんの応援に来られていたため、その一行に合流。いざ、ラスベガスでの野球観戦に出発です。

 

写真提供:UDC

向かったのは、街の中心部から車で20分ほどの郊外にある、Cashman Field(キャッシュマン球場)です。収容人数は1万人弱ですが、売店などもしっかり完備されていて立派です。シーズンもほとんど終わりかけた時期、しかもマイナー・リーグの消化試合なのですが、スタンドには、いかにもアメリカンなビールっ腹のおっさんや、若い夫婦、子供連れの家族、などたくさんの観客が詰めかけていて、アメリカ野球の裾野の広さを感じます。なんといっても、バックネット以外の内野席には、グラウンドとの間を仕切るフェンスが一切ありません。「ファールボールが飛んで来たら危ないぞ!」と目くじらを立てるのではなく、むしろ選手との距離の近さや臨場感を楽しむ純真な野球ファンの姿がみられました。みんな野球が大好きで白球の行方を楽しそうに眺めている、そんな感じです。平林さんがアメリカで再挑戦しようと決意した理由が、また少し理解できた気がしました。

 

ラスベガス滞在中に2試合を観戦するのですが、予定では平林さんはいずれも塁審とのこと。「ストライク!」をコールするカッコイイ球審姿を楽しみにしていた私は少しガッカリです。ところが… 我々応援団(?)が試合開始に少し遅れて到着した2回表、試合が中断しています。どうやら、その試合の球審だったバリーさん(NHKの番組にも登場していたクルーチーフの審判)が1回に投球を直接腕に受けてしまったとのこと。バリーさんがトレーナーと話しているのが見え、その後控室に平林さんと一緒に下がっていきます。しばらくして出てきたのは球審の用意をした平林さん!検査に向かうために退場したバリーさんの代役を務めることになったのです(やった!…バリーさん、ゴメン)。ただしマイナー・リーグの審判はもともと「3人制」(メジャー・リーグや日本のプロ野球は4人制です)。審判が1人退場した今、なんと残りの2人でスピ ード感溢れるプロの試合を裁かなくてはなりません。試合後に平林さんに聞くと「ルーキー・リーグやショートAでは日常的に2人審判制だったので、慌てることはなかったし、むしろ審判の腕の見せどころだと思いましたよ」とのこと。それでも、ホントに大丈夫なの?と観戦している方はドキドキです。

 

案の定、この試合では一塁線を抜け二塁打になりそうなライトへの打球が2本ありました。2人審判体制の相棒である一塁塁審はファウルかフェアかを確認し、ボールの行方を追わないといけません。そこで平林球審は、本塁からマウンドの横を駆け抜けて二塁付近まで疾走し、塁上でのクロスプレーを判定するのです。球審用マスクを手に持ったままセカンドベース前に仁王立ちし「アウト!」をコールする平林さんが、メチャクチャにカッコ良くってシビれました!もちろん、レフト前ヒットで二塁ランナーが本塁に突入する際のクロスプレーを判定する姿もバッチリ目撃することが出来ました。いやぁ~スゴイ!

 

写真提供:UDC

翌日の第二戦、平林さんは一塁塁審としての出場です。前日欠場したバリーさんに代わって、地元在住の元マイナー審判員であるスコットさんが補充審判として登場し、この日は審判3人体制です。それでも、やはり平林さん、大忙し。ライトポール上を巻いていくきわどい大飛球を判定したり(しかも、ポールには写真のようなセクシーな広告がくっついているので、ますます判定が難しそう!)外野手のダイビングキャッチを出来るだけ近くで判定すべく全速力で走っていったりと本当に大変です。シーズン中から、常に身体を鍛え、ケアを怠らず、技術を磨いておられる平林さんの努力がうかがわれました。

 

私は、小さい頃からスコアブック片手にたくさんの試合(高校・大学からプロ野球まで)を観に球場へ足を運ぶ野球ファンでした。テレビの解説者を先回りして同じ内容のコメントを発するので、いつも周囲に驚かれるほどなのですが、そんな私も考えてみれば、今までこれだけ「審判」に注目して野球の試合を観たことなど一度もありませんでした。よくよく観察してみれば、メジャーを目指す審判は「判定する際の正確な位置どり」や「他の審判との連携」などに常に気を配り、かつ試合を円滑にコントロールすることで、エンターテインメントとしてのベースボールを盛り上げていることに気づかされました。まさにプロ。日本と違い、審判の権威が常に高く維持されている米国ならでは、という背景もあるのかも知れませんが、再挑戦から7年を経て、ベースボールの本場であるアメリカの地に確固たる地位を築いてきた平林さんのたくましい姿に感動を覚えたのでした。

 

滞在中には、ホテルのスポーツバーで平林さんと3時間以上もサシでたくさん話をすることが出来ましたし、日本からかけつけた応援団のみなさんのマニアックな審判談義を拝聴する機会もありました。数十回の海外渡航歴がある私にとっても2泊4日の強行軍は初めての体験でしたが、むしろ濃密な時間の中でたくさんのことが印象に残る旅となりました。無理してラスベガスまで来て本当によかった、と感じることが出来ました!(後日、平林さんがメジャー・リーグの春のオープン戦で審判をしたときの試合球もいただいてしまいました♪)

 

(あとがき)

この原稿を執筆している時点(2011年10月27日)で、来期の平林さんの進路はまだ定まっていません。来年メジャー・リーグに昇格するための第一歩(選手にとっても審判にとっても)となるアリゾナ・フォールリーグが10月に始まっているのですが、残念ながら平林さんには招聘通知が届きませんでした。マイナー・リーグの審判としてもう1年残るのか(残れるのか)あるいは他の道を模索するのか、現時点では未定です。それでも「フィールド・オブ・ドリームス」を彷彿とさせる舞台で躍動し、その中で追いかけてきたサムライアンパイアの夢は、まだまだこの先も続いていくはずです。すばらしいご縁をいただいた同世代の友人としてこれからも様々なカタチで平林さんを応援していきたいと思っています。
山岡 三四郎
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